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べいだ~

Author:べいだ~
~まずは挨拶~

「たまにかくにっき」管理人のべいだ~です。
このにっきを見てくださってありがとうございます。
現在のべいだ~最新ジャグリング動画です。
なかなか長い(7分半)作品ではありますが、お時間ありましたら是非ご覧下さい。↓
りょこうじゃぐりんぐpart3 「E・Z・O(えぞ)」



べいだ~です。
ジャグリングについてのにっきのはずだったんですが。
脱線します。
…いや、元々レールなんてないんですけどね。

時にはレールが無いと迷いすぎて寂しくなりますね。



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<レポートより、引用>

さてダンスの前には、ルワンダ人の音楽活動家による講演があった。そちらは非常に深刻なものだった。罪人を「ゆるす」ということについての話だ。
彼は1994年にルワンダで起きたジェノサイドにおいて家族を幼なじみに殺された。幼なじみによって、である。平和大国日本に暮らす私たちからは想像もつかない残酷な状況だ。彼は途方も無い悲しみに、音楽をやめてしまったこともあったそうだ。だがある時彼はその幼なじみを「ゆるした」。すると、加害者だけでなく、ゆるした彼自身さえも、救われたのだという。彼はそれを「解放された」と表現していた。ゆるすとは、相手を想ってすることというより、実際に救われているのはゆるした当の本人なのだ。万人が、家族を殺した人間をゆるせるわけではない。しかし、彼はその罪を裁くのではなく、ゆるしたのである。過去の罪への憎悪に拘泥されることをやめ、自らを「憎しみ」という檻から解放したのである。彼の罪に対する態度には、多く学ぶところがあるように思う。






…とかとんでもなく偉そうなことを書いております。
こんばんべいだ~です。

今学期、体育の授業を取っています。その中でレポートを提出するのです。
「ダンスの公演」について書くんですが、そのなかで、勢いあまって本題と全く関係の無いことまで書いてしまいました。
そのまま消すのもいやだったので、とりあえずここに載せておこうと思った次第です。



ええ、先日、ルワンダ(蛇足でしょうけど、アフリカにある国です。ご存知ですよね、皆様ご存知でしょう。しかしわたしはルワンダの位置を地図で示せないのです)からいらした音楽家と、ダンスチームによる舞台をみたんですね。
で、それが二部構成になっていて、前半がこのような講演であった。

なんですが、それが非常に深刻な内容で、なんというか、その中でびっくりしてしまったんですね。

何にびくりしたかというと、その妙な「なまなましさ」に、です。


こんな公共性の高い場でこういうことを公言するのもなんですが、私自身、1994年という、わたしが生まれた後の時間において、このような残酷な事態が起きている、ということが、生々しく実感できなかった。

早い話が、紛争だとか内戦だとか、そういう類の話に、実感を持って聞き入ることができない。
なんとか想像することはできますが、どこか安っぽい想像しかできないと言うか、映画の受け売りのようなシーンしか想像できないんですね。

しかし、今回は何か違った。

何が違うのかといわれたらあまり上手くいえないんですが、一つに、そういう悲しい過去を持った人が、今現在何事もなかったかのように明るく過ごしていることに、心打たれた。
逆に生々しく、「悲しい」という気持ちを実感したような気がした。

何が違ったんでしょうね。


とにかく、何かが違いました。



こうして考えてみると、「生で」話を聞いたと言うことが非常に大きいんですね。

…昨今、情報を得る「媒体」に関する議論ばかり注目されがちですけども、やぱり一番なんだかんだで生の、直接の、新鮮な経験が根底に来るべきなのだなあと実感しました。

クオリアは、その場に行ってみないと決して生まれないのだー。(茂木健一郎「脳で旅する日本のクオリア」)




しかしそうなると、「現在底なしの悲しみの中にある人たちが希求する平和」なんかについて考える時、どうしても平和に慣れてしまったわたしがそれについて意見しようとするとすると、ただのファッションになってしまう気がしてならない。
一体主観的に、恒常的に平和に浸かっている人間が、限りない欲求から生まれる「平和」についてどれだけのことを言及しうるのだろうか…


なんというか、ただ申し訳ないです。


でもそんな「申し訳ない」なんという気持ちも、また申し訳ない。








とりあえず、自分自身の問題を解決していくことに専念してしまいます。それでいいのかな。いいのか。
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